はな びと その1   2007.08.15

  
 若い頃、お花は、フラワーアレンジメントを少し習いましたが、信州に来てから、「30年目」でご紹介したように、離山房の槙野先生に小原流のいけばなを教えて頂きました。 そして、工房の展覧会には、庭に花のある季節は、野の花を生けるようになりました。 「木」という素材は、それだけで、ほっとする所がありますが、やはり、木の作品だけというより、生きた草花を生けると、どんなささやかな花でも、会場全体が生き生きとしてきます。

草月流のダイナミックな表現
 毎年、11月に日本橋の高島屋で開かれる草月流の華展を拝見していますが、花を素材としたオブジェという感じでそのダイナミックさや発想の素晴らしさに驚かされます。ひとつひとつの作品に作者の想いがあり、物作りをする上でとてもよい刺激になります。
 
 草月流の創始者・勅使河原蒼風の著書「花伝書」は、強く心に残っています。花を生けるということを通して、生きるということを考えさせられました。

 「花との出会いは偶然のようで、偶然ではない。偶然が必然になる。いけばなの世界は出会いの世界なのだ。 …… 花はふたたび同じものがめぐってこないということ。人間もふたたび同じ状態では花に逢えないということ。その無情の中にどうしても結ばれなければならないものがあるということが、いけばなのなのではないだろうか。」 
 この箇所は、何度読んでも心に響きます。
 
川瀬敏郎氏の荘厳さ

 白洲正子さんが、その才能を愛でていた華人です。本や雑誌で作品を拝見し、いつもあこがれていました。
3年ほど前ででしょうか。長野県松代の文武学舎というところで、華人 川瀬敏郎氏の花展がありました。
 何棟かの会場に分かれて展示をしていましたが、もっとも印象に残っているのは、天井からたくさんの竹をつるして、竹林をイメージし、そこに藍染めの御簾をつるし、筍を生けたものでした。そして、その筍には、一滴の雫がきらっと光っていました。はっと息をのむような荘厳な光景でした。
 どの会場の花も, この日のために全国から集められた中から選び抜かれた花達です。 生けられた花のひとつひとつがこの組み合わせ、この形、この花器、この空間でしかありえないのではと思えるくらいに、完璧でした。思わず背筋がピント伸びるような凛とした佇まいにため息の連続でした。

「一瞬の生を掬い取ることが生けること」と、ある雑誌のインタビューで話されていますが、まさに花を生けたその瞬間にすべてが凝縮されるようでした。それ以上生けた状態を続けるのは、本意ではなく、雑誌のお仕事などでも、撮影が終わるとすぐに、花をはずしてしまわれるそうです。それだけに、見る者には、その厳しさ、凝縮した想いが伝わるのでしょう。
 

槙野あさ子先生の優しさ
 私のお花の先生で、小原流の師範です。 野の花がお好きで、カメラマンのご主人と、全国を旅して、そこの土地の野の花を生け、いくつもの本を出されました。 軽井沢で「離山房」という喫茶店も開いていますが、いつ訪ねても、お店は、お花でいっぱいです。 先生がイベントで花を生けると聞くと、近隣の多勢の方が庭や山の花を持ち寄ってくださいました。 見たこともない素晴らしい枝ものや珍しい花に出会うことも多々ありました。軽井沢ならではの素材で生けられた花は都会で生けられるお花とは又違った魅力にあふれていました。

 いつもは、様式をきちんと生けるお稽古でしたが、毎年初夏を迎える頃からは、庭や道端に咲いている野の花をそれぞれ、持ち込んでお稽古をしてくださいました。 いつものお稽古とは異なり、籠や日常の器に投げ入れをするのはとても楽しく、お花を摘む楽しさも味わうことも出来ました。先生のお稽古のおかげで、たくさんの野の花に触れることが出来、そして暮らしの中で花のある幸せを思い、花を生けることの楽しさを味わうことが出来ました。
 
そして、先生は、生けた後、使わずに残したものや、切り取った枝など、いつも大切に小さな花器に必ず、生けていらっしゃいました。 命あるもの、一枝も無にはなさいませんでした。 今は、お稽古はなくなりましたが、20年近くのお稽古を通して、たくさんのことを教えていただきました。

 ⇒その2に続く。